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第八回 
日本人初のメジャーリーガー マッシー村上
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21

毎日、朝刊を開くと、まっさきに読む記事があります。「MLB大リーグ『日本選手の成績』」です。ひと昔前だったら信じられない話です。5月のある日、【野手】イチロー、城島(マリナーズ)、井口(ホワイトソックス)、田口(カージナルス)、松井稼(メッツ)【投手】斎藤(ドジャース)と、6人の成績が掲載されていました。松井秀喜の左手首骨折は残念でしたが、その様子も衛星中継で同時に日本で放送されました。東海岸のナイトゲームは時差の関係で午前中の早い時間に、西海岸のゲームは午前から正午を挟んで午後にかけ、毎日のように日本でもMLBの放送が見ることができます。まさに夢のような時代になりました。

もともと日本のプロ野球は、読売新聞の創始者・正力松太郎翁が「アメリカの大リーグとワールドカップを争うために」立ち上げたといわれています。しかしながら、先の大戦での中断期間もあり、なかなか日米の実力差は縮まりませんでした。ようやくMLBの重い扉が開いたのが1964年、昭和39年のことでした。それは、まさに偶然の産物といっても過言ではない出来事でした。南海ホークスの名将・鶴岡一人の慧眼がすべてのはじまりでした。法政二高が夏春連覇をした時、エースの柴田勳の陰に隠れていた控え投手、サウスポーの村上雅則に目をつけたのが鶴岡でした。鶴岡はプロ野球入団を渋る村上に対して、「アメリカへ野球留学させてやるから南海に入団しないか」と誘ったのです。

1962年9月のことでした。村上は、「1ドル360円の時代ですよ。海外、それも野球の本場アメリカへ行かしてくれるというのは魅力でした。プロ野球選手になるというより、アメリカへ行けるというのが魅力でした」と、当時の心境を語っています。南海は約束どおり村上をサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレスノに留学させました。メジャーリーグの下が3A、その下が2A、そして1Aはその下のレベル。まさに留学という言葉がぴったりの渡米でした。

ところが、村上は得意のスクリューボール(左腕の落ちるシュート)を駆使して、本場アメリカのバッターをキリキリ舞いにさせました。106イニングを投げ159奪三振。11勝7敗という好成績をあげてしまいました。現在だったら大変な騒ぎになっていたことでしょう。ところが、その当時は、そのニュースも日本に伝わりません。「本当は、アメリカ留学は半年くらいの予定で、シーズン途中で帰国することになっていました。でも日本からはなんの反応もなし。それならアメリカに居続けようということになりました」

1964年9月1日、サンフランシスコ・ジャイアンツはニューヨークでメッツと対戦。その試合直前、村上はジャイアンツの職員から「この契約書に署名しないと試合に出られない。とにかくサインして」といわれて、何も分からぬまま署名してしまいました。契約社会のアメリカのしきたり、これが日本人初のメジャーリーガー誕生の瞬間でした。翌1965年の契約書にもサインして帰国した村上を待っていたのは、二重契約の問題でした。「南海の許可をとらずにアメリカの球団と契約するのはけしからん」といわれた村上は、「問題を大きくしたのは、なにも交渉してくれなかった南海のほうです」と証言しています。怒ったアメリカ側は、「爾後、問題が解決するまで日本との交渉を断つ」とまで態度を硬化させてしまいました。

結局、「もう1年だけアメリカでプレーしたい」という村上の意見が通り、再び1965年に村上は渡米しました。この時は「マッシー村上」としてサンフランシスコ・ジャイアンツのリリーフの大黒柱として活躍、4勝1敗8セーブの好成績を残しています。しかし、村上は南海ホークスとの約束のため1966年のシーズンはアメリカに渡ることはできませんでした。「せっかくアメリカの事情もわかってきて、これからという時でしたが、契約のことは仕方がなかった。わたしが帰らなかったら、本当に日米の球界が没交渉 になることも考えられた。そうなっていたら今の日本人選手の活躍もなかったかもしれないね」。村上はいかにも残念という表情で語っていました。

帰国してから、村上は南海ホークス、阪神タイガース、日本ハムファイターズと渡りあるき、103勝30セーブの記録を残しました。大リーグ仕込みのサウスポーは、日本でも成功をみたのです。その後、日本人選手の大リーグメジャー入りは、1995年にドジャースに入団した野茂英雄まで30年間待たなければなりませんでした。いかにマッシー村上の大リーグ入りが快挙であったか分かります。ただし、いまのようにテレビ放送もなく、マッシー村上のニュースは新聞のべた記事程度の扱いであったと思います。

いまやイチローのレーザービームの返球を、城島がホームベースをブロックしてタッチアウトする時代になりました。そして野球の国別対抗のワールドカップ、ワールドベースボールクラシック(WBC)では、日本が見事に優勝するまでになりました。マッシー村上は、はたして後輩たちの活躍を、どのように感じているのでしょうか? たぶん、正力松太郎翁は草葉の陰で快哉を叫んでいることだろうと思います。


白髭隆幸(しらひげ たかゆき) プロフィール

1954年6月9日、愛知県名古屋市に生まれる。 早稲田大学ラグビー部ファンの同人誌『荒雪』(1974〜78年発行)でスポーツジャーナリストとして活動開始。講談社より『熱闘!早稲田ラグビー』 『熱闘!大学ラグビー』を上梓。その後、講談社で編集者として勤務。
『高校サッカー年鑑』(1978〜)『ギネスブック・オブ・オリンピック』 『AJPS年鑑』『スポーツシリーズ』などを手掛けた。
1990年にフリーランスのライター、エディターとして独立。 北京アジア大会、アルベールビル、バルセロナ、リレハンメル・オリンピックではJOCの公式写真集に執筆。
一方、ビジネス分野でも鄭夢準『日本人に伝えたい』(日経BP社刊)、ジャック坂崎『ワールドカップ巨大ビジネスの裏側』(角川書店)のプロデュースに参加している。2002年は徳間書店刊『英雄神話』(隔週年24冊発行)のスタッフ・ライター&エディターとなる。

日本スポーツプレス協会理事 国際スポーツプレス協会会員 日本オリンピックアカデミー会員 
日本サッカーライターズ協議会会員 筑波大学非常勤講師

(主な取材歴)
オリンピック ・・・カルガリー、ソウル、アルベールビル、バルセロナ、リレハメル、アトランタ、長野
サッカーワールドカップ・・・ メキシコ、イタリア、アメリカ、フランス、韓国・日本
ユニバーシアード・・・神戸、札幌、バッファロー、福岡、大邱
アジア競技大会・・・ソウル、北京、広島、バンコック、釜山、青森
東アジア競技大会・・・釜山、大阪、マカオ
ラグビーワールドカップ・・・ニュージーランド・オーストラリア、イギリス・フランス
高校総体・・・福島大会いらい26回、国民体育大会・・・宮崎大会いらい27回(連続)

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