6月9日から7月9日までドイツでサッカーの祭典ワールドカップが開催されます。また5月17日にはフランス・パリ郊外のサンドニのスタッド・ド・フランスで、ヨーロッパクラブ一を決定するUEFAチャンピオンズ・リーグの決勝戦が行われます。
現在、こうしたサッカーの海外の試合が、リアルタイムで日本のお茶の間で楽しめるようになりました。まったく便利な世の中になったものです。わたしが子供の頃には、サッカー(現在と違って超マイナースポーツでした)の海外試合なんかは、週1回の『ダイヤモンドサッカー』(テレビ東京の前身・東京12チャンネルで1968年から1987年まで20年間994回放送)でしか垣間みられませんでした。
岡野俊一郎さん(国際オリンピック委員会委員。日本サッカー協会名誉会長)の解説、金子勝彦アナウンサーの司会で、初期はイングランドのプロリーグを、後にワールドカップやその他の国のサッカーも紹介してくれました。わたしが育った名古屋地方には東京12チャンネルの番組をカバーするテレビ局がなく、UHFの三重テレビを介して『ダイヤモンドサッカー』を見ていました。そのために特別なアンテナを設置してもらった記憶があります。
『ダイヤモンドサッカー』で最初に放送されたワールドカップが、1970年メキシコ大会でした。その大会、ブラジルが3度目の優勝を飾り、当時の優勝カップであったジュールリメ杯を永久保持(大会規定により最初に3度優勝したチームに与えられることが決まっていた)することになりました。そのブラジルの3度の優勝、すべてに関わったのが「キング」ことペレでした。
ペレは愛称で、本名は「エドソン・アランテスド・ナシメント」といいます。まあ、だれも本名で呼ぶ人はいません。ちなみに、現日本代表監督のジーコも本名は「アルツール・アントゥーネス・コインブラ」といいます。ある時インタビューをお願いして原稿料の振り込み先の預金口座を聞いたところ、名義は本名になっていました。ブラジルでは、長ったらしい本名で名前を呼びあうより愛称が通名になっているようです。
話が横にそれました。ペレは1940年10月21日生まれ。1958年のスウェーデン大会に17歳でデビュー、1962年のチリ大会、1966年イングランド大会、1970年メキシコ大会の4回に出場。イングランド大会を除く3回で優勝、4大会で通算12ゴール(歴代3位)しています。まさにブラジルの黄金期を築いた大いなる功労者でした。ブラジルのサントスFCに所属したペレは、公式試合通算1000ゴールをあげている唯一の選手です。
そんなペレがサントスの一員として来日したのが、1972年5月でした。26日に国立競技場で日本代表と1試合戦っています。ペレは1970年のメキシコ・ワールドカップでブラジル代表を退いたものの、プレーヤーとしては円熟の境地にさしかかっていました。
対する日本代表は、前年にミュンヘン・オリンピックのアジア予選に敗れ、メキシコ銅メダルの遺産を食いつぶしてしまった状態でしたが、銅メダルのメンバーとブラジルからの日系選手が加わり、それなりのチームになっていました。日本チームの顔ぶれは、GK横山謙三、DF山口芳忠、小城得達、川上信夫、古田篤良、MF荒井公三、森公慈、小林ジョージ、FW高田一美、釜本邦茂、藤口光紀。途中、GKの横山が船本幸路に、高田がネルソン吉村に、藤口が永井良和に途中交代しています。
名古屋在住の白髭少年は当時17歳の高校3年生。もちろんテレビ中継で試合を見ました。国立競技場は、当時のサッカーの試合では珍しく満員札止。現在になってもサッカー関係者に話を聞くと、ほとんどの方が国立競技場に足を運んだといいます。それだけペレの集客力は並外れてあったということですね。
試合の焦点は、サントス。日本代表の勝敗よりもペレのプレーぶりに集まっていました。中継したテレビ局も異例の「ペレ専用のカメラ」を設置。ペレの一挙手一投足(サッカーだから手は使えませんが)に注目したものです。
試合の詳しい内容は、ほとんど憶えていません。現在のようにホームビデオが普及しておらず、食い入るようにテレビの画面を見つめていた白髭少年の記憶に残っているのは、一つのシーンだけです。
ぺレのマークをしていたのは「マムシ」の異名をとっていた山口でした。1試合中ずっとペレに密着マークしていました。ところがペレは山口を背中に背負って、パスを胸で受けボールを足元に落としました。地上にバウンドする前にボールを高く背後に浮かし、そのボールは山口の頭上を越します。するとペレは背中の山口をくるりと躱(かわ)して素早く山口の背後に回り、落ちてきたボールをボレーシュート。ものの見事にゴールを決めてしまったのです。
「へぇ〜こんなことが出来るんだ」とペレの妙技に観客は酔いました。もちろん、テレビの前の少年も感嘆の声をあげました「これが世界のサッカーか!」と。記録によると3-0でサントスが日本代表に勝っていますが、そんなことはどうでもよいのです。あのペレのシュートが見られただけで、大満足の試合でした。
ペレは翌年までサントスでプレーし現役を引退。しかし1975年に立ち上がったアメリカのプロサッカーNASLのニューヨーク・コスモスで活躍。77年に再度来日しました。その試合はスタジアムで取材したのですが、その時のペレには、すでに72年の凄みはありませんでした。
その後、数々の名選手が来日して日本でプレーしています。ベッケンバウアー、クライフ、マラドーナ、ジーコ、プラティニ、等々。しかし、あのペレ初来日の時のようなインパクトあるプレーには出会えてはいません。
今では衛星放送で瞬時に世界中のサッカーが見られます。そして素晴らしいプレーが何度でもビデオで繰り返し見ることができます。ただ、それがために昔のテレビ放送のように真剣には見ていないのではないでしょうか。
ペレ初来日のころは、それこそサッカーをテレビで見るのも真剣勝負でした。もう、ペレのプレーは一瞬も見逃さないよう見たものです。たぶん、わたしも正座していたと思います。
わたしより少し上の団塊の世代の皆さんも、きっとそうしてテレビ観戦をしていたことだろうとご推察します。ぺレの現役時代を知っていらっしゃる方は、もう齢50歳を越えていらっしゃいます。
ペレはその後、ブラジルでスポーツ大臣を務めたり、2002年ワールドカップで日本招致に一役買ったり、まさにスポーツ親善大使として活躍しています。
個人的には1986年のメキシコ・ワールドカップの際、スポーツメーカーのパーティーでお会いしたことがあります。胸板とかは厚いものの意外と小柄であったことには驚きました。サッカー界最大のスターとして、ドイツ・ワールドカップでもお目にかかれると思い楽しみにしているところです。
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