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第十二回 
高校野球の夏到来! 忘れられない太田幸司27イニングの激投
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21

今年も高校野球の夏がやってきました。甲子園で行われる全国大会は8月6日に開幕しますが、その予選にあたる各都道府県大会は、沖縄県大会を皮切りに7月には全国各地で熱戦を展開しています。

最初は自らの母校の成績を気にしながら、母校が敗れた後は、己の縁りのある学校を応援し、最後は自分の出身都道府県の代表校を応援するという「ホーム」最優先、郷土愛を基盤にした「思い込み」の強い観戦に繋がっていきます。それが高校野球の根強い人気の一因だと思います。

高校野球といえば、数々の記憶に残る名勝負が繰り広げられ、人によって「これが最高の試合だった」いう思い出の試合が多々あることと思います。わたしに「あえて1試合をあげてください……」と問われれば、1969(昭和44)年の第51回全国高校野球選手権大会決勝戦、北奥羽代表の青森県立三沢高校vs.愛媛県立松山商業高校をあげるでしょう。

三沢高校は、エース太田幸司のワンマンチーム。太田が2年の時に夏の大会初出場。翌年の春の選抜も出場したが、ともに2回戦で敗退。満を持しての太田最終学年の夏は、緒戦こそ大分商業を相手に延長で逆転勝ちだったが、2回戦は名門・明星に2-1で辛勝。ここで波に乗り、準決勝では岡山の玉島商業を破り、一気に決勝戦にまで駒を進めました。

一方の松山商業は、当時でも後援会から年間1000万円の寄付金があったという名門校(ちなみに三沢の年間予算は15万円)。右腕・井上明と左腕の中村と拮抗した力の投手2人を持つ攻守にバランスのとれたチームでした。決勝まで堂々たる野球で進出し、4度目の優勝(校名変更で「松山東」の1回を含む)に王手をかけていました。

8月18日に行われた決勝戦、松山商業が先攻、三沢が後攻め。井上、太田の両エースが淡々と投げあい、付け入る隙を見せません。まさに投手戦。頭脳的なピッチングを見せる井上はコントロール抜群、ただでさえ貧打の三沢はチャンスらしいチャンスを作れません。

いっぽう三沢の太田も直球一本やりのピッチングで松山商業の好打線を封じました。その端正なマスクは「コーちゃん人気」を呼び、元祖甲子園ギャルも登場しました。

そして、大きな山場が15回裏にやってきました。三沢の先頭バッターが菊池善弘が三遊間を破って出塁。続く高田邦彦がピッチャー左に送りバント。小フライになった打球を松山工業のサード谷岡潔がハンブル。堅い守りの松山工業の上手の手から水がこぼれました。無死1、2塁。二人のランナーを三沢の谷川義彦が送りバントで送り一死2、3塁の大チャンス。

ここで松山商業は満塁策を取ります。滝上哲を敬遠して、一塁を埋めました。さすがの松山商業のエース井上にも疲労の色が見えました。押し出しでもスクイズでも外野フライでもタッチアップでサヨナラ。内野ゴロでも正面を外れれば1点は確実です。ここで井上が土壇場の力を見せで踏んばります。

井上は、満塁でしたがスクイズを警戒しました。ラストバッターの立花五雄に対しボール3つ続けて出し、絶体絶命。この場面でテレビの前の野球大好き白髭少年(当時中学2年生)は、「スクイズのサインを出してストライクならばスクイズ、ボールならばフォアボールで押し出しサヨナラ勝ち」と頭のなかで予想したのですが、立花は真ん中高めのストレートを見逃します。この1球が勝負の明暗を分けました。

1-3からの5球目、真ん中低めのボール。立花は「ボール」と判断して見送り、1塁に向かって歩きかけたのですが郷司主審のコールは「ストライク!」。2-3のフルカウントに
追い込まれます。

そして最大の見せ場がやってきます。井上が投げた6球目を立花は強振、ボールはピッチャーの井上のグラブをワンバウンドで襲い、ショート樋野和寿の前に。バッターランナーの立花は一塁ベースを駆け抜け、サヨナラ勝ちを確信した時、ホームベースを見るとサードランナーの菊池がホームでフォースアウトに。

抜群の運動神経の井上がボールをグラブに当て、それが前進したショート樋野の真正面に飛び、打球をライナーと勘違いした菊池のスタートが一瞬遅れ、それを見た樋野がバックホーム。キャッチャーがホームベースを踏んだ一連のプレー。松山商業は大ピンチを切り抜けました。

16回裏にも三沢は一死満塁のチャンスを迎えますが、やはり鉄壁の松山商業の守りは崩れません。またも松山商業はピンチを凌ぎます。そして三沢に二度とチャンスは巡ってきませんでした。

松山商業・井上が232球、三沢・太田が262球を投げ、スコアーボードに36個の「0」が並んで、引き分け翌日再試合(高校球児の健康管理のために設けられた当時の大会規定)になりました。

8月19日の決勝再試合、松山商業は疲れた井上を休ませ、左腕・中村が先発します。対する三沢は太田幸司がマウンドに立つしかありませんでした。太田には、もはや前日の球威はなく1回表に2点、6回表に2点を献上、結局4-0で松山商業が深紅の大優勝旗を手にしました。

太田は27イニング、2日間で3試合分を1人で投げきって「悲劇のヒーロー」となりました。わたしの友人の多くは、「松山商業は卑怯だ。井上も連投すべきだった」と声高に主張したのですが、わたしはそうは思いませんでした。
「ルールの範囲内。ピッチャーが二人いるなら二日目は中村が投げて当然」と思ったのですが、あの当時に雰囲気としては、判官びいきで三沢ファンが多かったような気がします。

あの松山商業vs.三沢の熱戦から38年。たくさんの名勝負が繰り広げられましたが、あれ以上の名勝負には出会えていないように思います。


白髭隆幸(しらひげ たかゆき) プロフィール

1954年6月9日、愛知県名古屋市に生まれる。 早稲田大学ラグビー部ファンの同人誌『荒雪』(1974〜78年発行)でスポーツジャーナリストとして活動開始。講談社より『熱闘!早稲田ラグビー』 『熱闘!大学ラグビー』を上梓。その後、講談社で編集者として勤務。
『高校サッカー年鑑』(1978〜)『ギネスブック・オブ・オリンピック』 『AJPS年鑑』『スポーツシリーズ』などを手掛けた。
1990年にフリーランスのライター、エディターとして独立。 北京アジア大会、アルベールビル、バルセロナ、リレハンメル・オリンピックではJOCの公式写真集に執筆。
一方、ビジネス分野でも鄭夢準『日本人に伝えたい』(日経BP社刊)、ジャック坂崎『ワールドカップ巨大ビジネスの裏側』(角川書店)のプロデュースに参加している。2002年は徳間書店刊『英雄神話』(隔週年24冊発行)のスタッフ・ライター&エディターとなる。

日本スポーツプレス協会理事 国際スポーツプレス協会会員 日本オリンピックアカデミー会員 
日本サッカーライターズ協議会会員 筑波大学非常勤講師

(主な取材歴)
オリンピック ・・・カルガリー、ソウル、アルベールビル、バルセロナ、リレハメル、アトランタ、長野
サッカーワールドカップ・・・ メキシコ、イタリア、アメリカ、フランス、韓国・日本
ユニバーシアード・・・神戸、札幌、バッファロー、福岡、大邱
アジア競技大会・・・ソウル、北京、広島、バンコック、釜山、青森
東アジア競技大会・・・釜山、大阪、マカオ
ラグビーワールドカップ・・・ニュージーランド・オーストラリア、イギリス・フランス
高校総体・・・福島大会いらい26回、国民体育大会・・・宮崎大会いらい27回(連続)

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